キャリアウーマンのタイプ

「男まさり」という言葉に、「女らしさを越える」というニュアンスがあることは、否定しがたいと思います。


「女らしさ」とは何かという問題には、さまざまな論議があり、それへの肯定・否定の論議もあるのですが、たとえば「男まさり」型のキャリアウーマンのなかには、職場では「おんな言葉」を使わない、と決めている人もいます。


そのことにも賛否はあるでしょうが、ともあれ「女らしさを越える」態度であることは間違いないでしょう。


第一世代のキャリアウーマンのすべてが「男まさり」型ではないし、「男まさり」の仕事ぶりを示す人たちのすべてが「女らしさを越える」態度をとっているわけでもありません。


しかし、職場では「おんな言葉」を使わないというほど厳しく生きている人があり、賛否は別として、そうした「男に負けまい」とする心意気に対し、派遣 千葉で働く人たちのなかにも世代的な共感もあるように見えるのです。


「男まさり」型の第一世代とは違うタイプのキャリアウーマンが増えてきたのは、20数年前からでしょうか。


その人たちを「第に世代」として特徴づけてみれば、「女で有能」ということができるでしょう。


「女で」というのは通俗的な表現ですが、「女性としての魅力」を備えているとか、「ビジネスの世界で、女性であることのマイナス要素」も心得て、冷静に対応しようとしているなど、いくつかの面をふくんでいます。

リサイクル型分別収集について

今回、リサイクル型分別収集について


多くの大都市ではリサイクル型分別収集とは縁が薄く、さりとて収集後の段階でも熱利用を別にすると、リサイクル活動には、どちらかといえば消極的であったといえます。


わたしたちは積極的にリサイクル活動に取り組み、リサイクルトナーなどを大いに活用すべきだと考えます。


のみならず、民間サイドの廃品の集団回収も、一般に中小都市におけるほどには普及しておらず、回収実績も上がっていません。


東京には89年度で3399の廃品回収団体があり、8万4600トンの回収が行われましたが、この量は、同年度のごみ収集量365万トンの2・3%にとどまっています。


集団回収の活発な中小都市ではこの率が10%前後に達します。


また、東京では集団回収量の92%は紙類が占めていて、びん類は4%、アルミを含む金属類は1・2%にしか過ぎません。


こうして大都市では、民間の廃品回収事業は行政がそれのみを頼りとしうるほどに活発ではなく、またたとえ今後に回収実績がニー3倍良くなることになったとしても、依然として再利用可能なびん・缶類は大量に他の家庭ごみと混じってごみ収集に排出されてくるのです。


したがって自治体としては、民間の回収活動を助成しているからといって、自らの清掃事業においてリサイクル事業に取り組むべき課題から逃れうるものではありません。

金融と資本主義 8

このような新しい金融手続きの最盛期においては、将来もっとも長期にわたって求められる手続きを今から見分けるのは困難でしょう。


というのも、今日の成功が長期にわたって続くかどうかはさだかでないからです。


とりわけ、さまざまな付随する技術をともなった株式公開買付の今後の道程が、すくなくとも現在の形態のまま長続きするかどうかはさだかではありません。


OPAの現在の形態こそ、OPAの最近の成功を根拠づけてくれたはずのものなのですが。


OPAは、遊休中の企業を蘇生させるのに適した取引として、また資源の最適管理にとって都合のよい取引として提示されました。


しかし、それは投機的な購買動機にたちまち染め上げられる特殊な活動をただちに引き起こしました。


それはまさしく為替市場や金利の場合と同様です。


実質的な企業買収に必要な信用の組織的な公開(LBO)によって、色々な展開が可能となったのです。


周知のように、このような事態が生じたのは、とりわけ米国です。


米国はこの技術の発祥の地であり、この技術の使用方法とそのイデオロギー的なプロパガンダを備えていました。


新しい金融資本家たちは、投機的利得のえさに引かれて、信頼性の低い債券形態で5000億ドル以上もの借金をしました。

金融と資本主義 7

思いついたらたちどころに実現されます。


記号の場合がそれでしょう。


会計簿記の、そして金融の例の創造力は、それが可能にするものをすべてあらわにするようになりました。


芸術は、自己自身を否定する快感にひたります。


例えば、単色画、ミニマルアート。


これは1969~70年代に米国を中心に絵画や彫刻に現れた、素材を最小限にしながら表現の主観性を抑制しようとする美術の傾向などのことです。


これに対して金融は、新製品をたゆまず生み出し続け、ついにシュールレアリズムを再発見したのです。


良識に反したいくつかの表現が、専門家連中のあいだで市民権を得ました。


かれらは貧欲な顔をして、有価証券担保貸し付け、金融の非仲介「ディスインタメディエーション(預金者が高金利の短期金融資産を購入するために銀行やそれ以外の預金取り扱い仲介機関から預金を大量に引き出す現象)、有価証券の流通に言及しました。


そして、OPA(株式公開買付・・・経営権の支配などを目的として株式購入数や期間を公示したうえで不特定の人から株を買い取る方法)。


LBO(上場企業が自社株の買い戻しにより非上場企業になること)。


その他のジャンクボンド(信用度の低い債券で、利回りは高いがリスクが大きい)


・・・といったような、あらゆる国民的金融システムが経験している変貌を説明しました。


徹底して近代的な方法で成長しようと望む企業が、自由に利用できる新しい金融技術を自分たちはことごとく知りつくしているということをひけらかすのです。

金融と資本主義 6

金融活動がほとんど押さえがたく膨張する第二の理由は、第一の理由のように、けっして技術的で、世界的なものではなくて、商業的で、国内的なものです。


《金融》のこの二つの支流(技術的・世界的な支流と商業的・国内的な支流)がこれほど早い時期に出会うようにあらかじめ条件づけるものはなにもありませんでした。


おそらく心理的誘惑がもたらす一定の効果を除けば、そうでしょう。


デジタル変換が可能にした為替取引の世界化が実現されたからといって、同時に企業の資金管理もまた、必然的につぎのような新しい時代を経験し始めるというわけではありません。


新しい時代とは、企業のいかなる資産も、いかなる負債も、不変のものあるいは自然に変動するものとみなされるべきではありません。


その逆に、資産・負債の組み合わせの改善と最適量がたえず探求されるべきだという暗黙の了解によって支配される時代のことです。


金融の技術者は、支払い能力のあるナルシスティックな顧客とともに誕生したのです。


たしかに、金融市場の世界化はこの金融技術者の新しい活動の限界を押しのけました。


貸借対照表の非物質化は、これもまた純粋に金融的な、新しい道具を必要としました。


貨幣とそれ以外の債権・債務証書との持続的な交換方法に関する、債権者と債務者との合意から生まれる道具が、それです。

金融と資本主義 5

産業と金融の何人かの主だった主役たちが純粋なマネー・ゲームに身を任せるときには、しかも古き良きカジノにおけるマネー・ゲームでは、源泉課税が当然とされていました。


しかし、このマネー・ゲームは源泉課税を免れている、経済システム全体がマネー・ゲームの帰結に左右されています。


それを受け入れるほかなくなるのです。


生かされずとも存在し、空気のように軽い記号の純粋な仲介である、たんなる「数字のゲーム」をとおして、しかも打算的な秩序維持の憲兵の目を逃れつつ金持ちになる・・・


このことは、ねたみをあおり立て、人びとを金融業へとかりたて、それを社会全体に浸透させるという結果を招くでしょう。


この旺盛な欲望が飽和に達すると、骨董品のような別の道が差し出されるのです。

金融と資本主義 4

この金融の引力は、貿易風と同じ規則的な流れを、しかし貿易風よりもはるかに強力な流れを生み出しました。


10年足らずのうちに自立した金融取引が発展し、その結果伝統的な為替取引をごくわずかな比率におしとどめるようになりました。


伝統的な為替取引は、いまや金融市場の活動量の5%を下回っています。


金融領域が実物領域から自立したことを強調するだけではもはや十分ではないのです。


いまや、後者の前者への依存がしだいに強まりつつあることを強調すべきです。


というのは、蓄積が追求されるとともに享楽財と生産財、個人財と集合財が堆積していき、それに見合って個人的資産の増殖と拡張が進み、そのうちの最大の個人資産額がきわめて巨額になるからです。


金利生活者、投機家、企業家のいずれであれ、資産保有者はやはりみずからの資産価値にしだいに敏感になっていくでしょう。


そのためにかれらの意志決定は、しだいに純粋に金融上の配慮によって導かれるようになります。


かれらの現実の行動は、金融の目標と金融収支によって左右されるのです。

金融と資本主義 3

これほど突然に、またわずかのあいだに金融が拡張するためには、たがいに共鳴しあういくつかの現象の歴史的な収敏が必要でしょう。


第一の現象は、金融拡張の必要条件です。


それは相も変わらず技術進歩です。


技術進歩の役割は、状況と活動しだいでさまざまに変わります。


この場合技術進歩があきらかに決定的な役割を果たしたのは、技術進歩が貨幣記号のおびただしい数の市場をほとんど瞬時に世界化したという点においてではありません。


この市場でおびただしい数の取引がおこなわれているという与件のもとで、技術進歩がこの市場の世界化をまったく費用がかからない・・・


とまではいかないにせよごくわずかの費用で可能にしたという点においてでしょう。


コンピューターと新しい通信方法(変換ネットワーク、人工衛星など)との出会いによって、国籍を問わず、あらゆる金融企業(銀行、保険会社、専門別の仲介機関)は、貨幣間の相互取引。


あるいは、これらの貨幣のそれぞれと債券との取引がもたらす、それだけの数の個別的市場へときわめて急速に参入することができるようになりました。


何年もしないうちに、為替市場と金利は、財やサービスの世界貿易(今日ほぼ1兆五000億ドルに達する)に依拠したあらゆる金融取引に見合うだけでなく、実体的な基盤をもたない、多少とも投機的な利得を期待しておこなわれる金融取引に見合う条件で推移するようになりました。

金融と資本主義 2

たしかに金融活動はいささかも新しいものではありませんでした。


周知のごとく、貨幣は、ついで金融資産の普及は、個人的・集団的貯蓄から成長の力をくみとる資本主義の生誕および発展と不可分でした。


つねに増加し、洗練されていく貨幣記号と金融記号の積極的な助力なしには、国民空間における、さらには世界空間における分業はありえません。


しかし、それではなぜ、この10年間における貨幣記号と金融記号の拡張が異例なまでに加速されたのでしょうか。


この10年のあいだに、真に世界的な金融市場が形成され、新しい金融手段がほとんど無限に芽生え、ついで開花しました。


そして、熱気あふれるゴールデン・ボーイズ(才能や環境に恵まれ、将来の成功をを約束された人)。


また、パピエ(詐欺師)が現れました。


この間に、貨幣に対する感情が民主化され、社会体の全体をほぼ汚染しつくしたのです。

金融と資本主義

民営化とメディア化が、80年代における資本主義の進展にとってもっとも銘記すべき内容をなすということは、さほど確かなことではありません。


この両者が論争のきっかけとなり、その論争がいかに激烈に、かつ華やかにくりひろげられたとしても、そうでしょう。


文学論争や芸術論争のいくつかのひそみにならってつぎのように予測することさえできます。


ここ10年にわたる民営化とメディア化の局面は、すくなくとも私的領域と公的領域との境界それ自身があらためて問い直される以前に忘却のかなたに追いやられることもありうる、と。


われわれが関心を抱くべきなのは、多くの場合企業の前歴をたどることではないでしょうか。


この10年間は金融活動の前代未聞の拡張がわれわれの心を揺さぶり、はるかに華々しい思い出となって長く記憶にとどめられています。


それだけに、この局面の忘却はなおさら当然のことなのです。

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