世界的な経済統合 4

資本主義の最大の国の首都(ワシントン)の市長が、その都市の半分強の人びと[上中層階級」に[麻薬に手を出すという」「肝をつぶすような」手本を示すのをやめるためには・・・


どれほどの費用を認めるべきかを考えてみるだけでわかります。


ただし、残りの半分の者[下層階級」はこの都市に入りこむことはできません。


対応がありうるとしたら、それは下からだけでしょう。


頂点はすでに腐敗しています。


ジュール・ゲード[フランスにマルクス主義を導入し、1880年にはラファルグとともにフランス労働党を結成する]はかつてこのことを予測していました。


かれは建てるべき家を間違えたにすぎません。


治安の悪さは、諸個人が今日よりもはるかに多くの財源をそのために当てる必要を感じるほどの段階にまちがいなくゆきつくでしょう。


その日がやってきたときには、日常生活の平穏を取り戻すために二つの手段しかありえないでしょう。


宗教と技術進歩がそれです。


この両者がもう一度背中合わせになって必要となります。

世界的な経済統合 3

社会諸階層の実質的な分離をもたらすような不安定性が高まりつつあるという予測・・・


あらゆる形態の無秩序と組織の機能障害のゆるやかな感染・・・


ヨーロッパの諸都市を拠点とするあらゆる種類の市場の増殖・・・


排斥と社会の解体を物語る心ない破壊行為の日常化・・・


これらの事態を一体どのようにして改めたらよいのでしょうか。


それらを即座に改めることはできないでしょう。


それどころかおそらくわたしたちは、つぎのような事態を目の当たりにすることになるでしょう。


つまり警察集団の数がしだいに不足するようになり、その毅然たる態度がしだいにゆるんでいきます。

さらに長期的に見ると、《教育》が、そして《正義》と言って悪ければ《安全保障》が、《医療》の犠牲にされるでしょう。


《医療》は、みずからが更年期の穏やかな化学療法の「巨大な」市場であることを知り、また中毒状態の人びとの市場をすでに横目でにらんでいます。


後者の市場は、今日ではまだ小さいが、ひたすら大きくなろうと望んでいます。


このような無秩序の増大に対応するためには、政治的権力を当てにすることはほとんどできません。


世界的な経済統合 2

国連の制度はしだいに重要となっていく数多くの任務を与えられつつあります。


しかし、たとえそうだとしても、国連制度がみずからを組織し、必要な諸手段を手に入れ、十分に効率的な組織へと変貌を遂げることによって自己の権限拡張が受け入れられるためには、多くの時間を要するでしょう。


それ以前に、メディア化が、正当と認められた貨幣感情を足場にし続けることによって、すべての人びとにもろもろの観念を提供し続けるでしょう。


それはたしかに創造的な観念です。


つまり新製品のイノベーションの観念、要するにシュンペーターが「創造的破壊」と呼んだ観念です。


しかし、それはまた買収の観念でもあります。


それは、はっきりとした根拠をもたない富裕化の、つまり公金横領の観念です。


この観念は犯罪を月並みなものにするでしょう。


・・・ところが、それは際限なく累積する社会的過程ではいささかもありません。

世界的な経済統合

すでに達成された世界的な経済統合は、それを自紙に戻すような大波乱を被ることはないでしょう。


現実的な脅威は、上位の次元ではなく、下位の次元にあります。


それは統一的な宇宙にかかわるのではなく、個人的生活のそれぞれにかかわっているからです。


今日の資本主義の危険は制度的な次元ではなく、まったく個人的な次元にあります。


生き残れるかどうかの不安は消え去ったのですが、死の不安がそれにとって代わりました。


人びとはみずからの肉体的・心理的な完全性のまわりに漂うあらゆるたぐいの脅威にしだいに敏感になっています。


たしかにこの地球は蓄積を続けていくでしょう。


しかし蓄積とともに不平等が増大していき、いかなる世界的権力もこの不平等を真に制御することはできないでしょう。

世界のシステム

今日における日本の攻撃性が、またわたしたちの意味では明日におけるドイツの攻撃性が、世界システムのもっとも重要な混乱の動態をなすということは、十分ありうることです。


しかし、この両国がそれらの社会的存在様式を輸出することになるということは、疑わしいことです。


それは、第二次大戦中に世界の他のすべての諸国が両国の帝国主義に反対したときに両国の勝利が疑わしかったのと同様です。


・・・というのも、ほとんどの諸国はこのようなたぐいの資本主義の確立に必要な手段を欠いているからです。


そのうえ企業のロジックは、無国籍的な世界市場を創出し、発展させるようになりました。


要するに、自国の歴史や文化と両立しがたい生活様式を強いられることを望まない諸国相互の大陸的な同盟(ヨーロッパとアメリカの)が、この二大列強をはばむための防御ネットを築くでしょう。


それはたしかに新しい戦争ではありますが、わたしたちが経験した前回の戦争とは異なる手段を用いた戦争であり、それよりもはるかに長続きする戦争です。


制約条件

行政が執行される過程において、限ら優先順位れた資源、限られた権限、限られた制度などのさまざまな制約条件が存在する。

とくに近年、行政の肥大化を是正しようとする動きのなかで、こうした諸制約条件は従来以上に厳しく課せられるようになり、ややもすると先例踏襲という役所的風潮を打破して、必要度の高い行政項目は何かを求める方策が求められるようになっている。

その一つの考え方として、行政の優先順位を選定する手法が提起されている。エグゼクティブトレードによると、通常、優先順位とは、各種の行政需要への対応順位を定めることをさす場合が多いが、こうした、①行政需要選択時における順位づけの次に、②施策の企画立案の過程における順位づけ、さらに③実施方法における順位づけが必要とされる。

また、優先順位は、時代的、社会的変化に対応して異なることは当然であり、それにより、住民の要求に適合した行政が執行できることはいうまでもない。

資本主義と組織

かつては村長が米の生産を管理したのですが、今日ではコングロマリットの社長が付加価値と商業的余剰を創出します。


中世における敵対的環境の存続、戦争が敗北した際の集団自決の命令、世界市場のつねに飽くことのない征服・・・


これらはこの列島が自己意識をもって以来の不変のテーマのさまざまなヴァリアントにすぎません。


日本はコーポラティズムを完全な形で具現しています。


このコーポラティズムは、たがいに相殺し、破壊しあう諸行動を通してその緊張を和らげるのでなく、あらかじめ行動に先立ってその緊張を解消するのです。


日本の手本が感染していくことを期待すべきなのでしょうか。


また何人かが予測しないまでも望んでいるように、すべての諸国が資本主義全体に強いられるような一つの組織化様式をとりいれることを期待すべきなのでしょうか。


わたしたちは生き残ろうとするすべての国が同じ戦闘を推し進め、同じ武器を製造するよう余儀なくされるような戦争に突入しているのでしょうか。

日本の独自性 2

現在における人と物の管理様式は、明治以前と比べてちがってはいません。


村落がただたんに列島全体となったにすぎません。


工業生産が米の生産にとって代わったにすぎないのです。


ただし、米の生産は、聖杯が北方民族にとってもっていたのと同じ資格で守られています。


すべての企業主に関して、同じ合議制、同じオストラシズム[異端者を排除する会社共同体]が見られます。


ソニーの盛田会長のような企業主であっても、そうです。


かれはオオヤケという集団的利益を犠牲にして、ワタクシという個人的な視点やエゴイズムを強いることが可能であると考えているのですが・・・。


政治の全面的な従属は、けっして弱まることはなかったのです。


それというのも、政治がつねに共同生活の決定因の下位に置かれてきたからです。

日本の独自性

日本の独自性の根底にあるのは、経済的なものではなく、文化的なものです。


もっとも、それは米国についても言えることですが。


日本は農民の島です。


その島国根性のために、日本は世界でもっとも同質的な国民の一つであり続けることができました。


日本では移民がほとんど皆無であったからです。


最近の工業化によっても、日本人の精神と行動からかつてのムラにおける生きた現実をかならずしも取り去りはしなかったのです。


集団的自主管理がおこなわれているこれらの村落では、個人的利益を犠牲にしてイエが自明のものとされます。


個人的利益を犠牲にすることこそ、まさに和の経験を強いられた共同体が存続するための条件だからです。


和とは、人びとが自殺するに等しい平和的な調和なのです。

遣唐使の行方

今日は気になる遣唐使の行方について。


遣唐使は、今沖縄ツアーなどで観光客あふれる沖縄の島にも漂着しています。


吉備真備(695~775)らの乗った三号船は、二号船と前後して12月7日に屋久島に着きました。


しかし、そこを出ると間もなく風に吹き流されて太平洋をさまよい、土佐沖の荒波にもまれつつ年を越し、天平勝宝6年正月に紀伊牟婁の浜に着きました。


吉備真備は阿倍仲麻呂に同行して入唐し、留学生として在唐29年、経史や諸芸を修業しました。


仲麻呂とともに名声をあげて帰朝すると、日本では漢学者、政治家として活躍し、学界政界で重鎮となりました。


やがて東宮学士や右京大夫へと累進し、威権をふるいましたが、藤原仲麻呂(恵美押勝)が勢力を得るようになって、筑前守や、肥前守に左遷されました。


後に正使藤原清河について入唐し、754年に帰朝して、軍事に惇心しました。


やがて、大納言、右大臣と累進し、律令の策定にあたるなどの功績をあげています。


さて、阿倍仲麻呂とともに安南に流された藤原清河は、どうなったのでしょうか。


彼も又、歌人として有名な人物。


彼は安南から長安に帰り、河清と名を改めて、秘書監という役につけてもらいました。


彼は幾度か帰国を思い立ったのですが、安禄山の乱がおこって大陸は物騒になり、旅立ちの機会を失って、終に唐で客死しました。


日本の朝廷は、それより前(女帝孝謙天皇の756年)彼を留守のまま従三位に叙し、常陸守に任じたのでした。

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